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売れる漫画と面白い漫画は違う

漫画家とか、
漫画好きだ・・・という、ベテランの漫画読みの人と
話していて、「あれ?」と思うことがあります。

「売れている漫画」は、みんな「面白い漫画」だと素朴に思ってたりする。
「売れる漫画」は「良い漫画だ」と言ったりする。
この場合、言ってる本人が、版元の人間だったりするんなら納得しますが。
普通の「漫画読者」がそんなこと言ったりする。
「漫画ファンなんです!」とかいう人が
「売れない漫画は駄目な漫画」とか、頭から信じているみたいな勢いで
力説したりする。

すごい違和感を感じますね。
「売れる漫画」と「面白い漫画」は、違うだろ?
って思う。

売れる漫画ってのは、社会の中で、それが売れて、稼ぎを生み出す漫画で
「社会の中での評価」であり、「商品としての価値」とか
そういう側面で、価値が高い漫画でしょう。
売れるための条件として「面白い」という要素も大きいと思いますが、
それも「社会のなかでの面白さ」という感じが強くあって。

どういうことかっていうと、たとえば、トレンドなこととか、時流に乗った物は、
絶妙のタイミングで、目の前に出てくれば「面白い」って感じます。
たとえば、「政治漫画で、汚職疑惑大臣が追いつめられ、自殺する」みたいな
話を、今週発売号でたまたま書いていたら、
普段は、世間からハナもひっかけらなかったのに、たとえどんなに絵がヘタでも
「面白い!」と思う人は多いんじゃないでしょうか。
ワールドカップの時には、サッカー漫画が流り、
5年に一回くらい、妖怪とか怪奇とか霊体験とかの漫画が流行るとか
そういうのも、同じような話なんでしょうけど。

ネタ(素材)だけではありません。
その料理法にも、トレンドな要素はあって、
70年代のスポーツ漫画は「不器用な主人公が、ものすごい努力をして、
試合に勝っていく」という、努力万能主義、がんばれば必ずむくわれる・・・
みたいなスジが流行してました。

いまは、そんなの「時代遅れ」と言われます。
「有名選手の子供が、自分でも気づかなかった、親から受け継いだ才能にめざめ、
少しの努力で、才能全開、鮮やかに勝って勝って勝ちまくる」のが
よろしい・・・とか言われます。試合に勝つときの「爽快感」を連発するのがトレンド。

で、こういうスジのほうが「売れる」ってことになってます。

絵の側面にも「売れる漫画」ってのはあって、
かんたんに言えば、「いま売れている、ヨソの漫画そっくりな絵」が「売れる漫画」って
ことです。例なんか、あげるだけ野暮ですよね。

線にもトレンドがあって、ここ20年くらいは、軽くて細くて正確な線が「売れる系」。
で、それだけだと、画面が真っ白になるので、スクリーントーンを
貼りまくって、奥行きや厚みを出すのがトレンド。
そういう絵を書かないと、版元にまず、ハネられました。

でも、ま、ここ5年くらい前から、もっと多様性が出てきましたが。

キャラクターにも「売れる系」はありますよね。
最近のは、そうですね、いろんなタイプの「いい男」「いい女」が
5.6人勢揃いしてて、読者がその中から「好みのタイプ」を
チョイスできるような・・・SMAPだかモームスだか、興味ないから
良く知りませんが、そういう「よりどりみどりキャラ設定」が、いまの「売れる系」。

「主人公」がドカーンといて、ワキに女の子、コメディリリーフのチビ・・・
なんてのは「時代遅れ」と言われますね。「売れない」って言われやすい。

説明すると、わかってもらえたと思いますけど、
「売れる」ということは「時代と寝ること」なんですね。その要素がほとんど。

いっぽう、
「面白い」というのは、「売れる」と違って、もっと、読者の中の問題で、
個人的なこと。

「全然売れていないし、誰もいいと言ってくれないけど、俺は、この漫画面白いと思う」
って、いいたくなるような漫画って、ありますよね。
そういうのを想像していただくと、すぐわかると思う。

「面白い」というのは、個人的な評価ですから、
なかなか簡単に説明できません。

たとえば、育児漫画とかは、いま、赤ちゃんを育てているママさんが読めば、
「そう、そう、そうなのよ〜」と、共感できて、面白いと思うでしょう。
でも、10歳の子供が読んだら、面白くもなんともない。
犬猫の漫画も、動物が嫌いな人が読んだら、不愉快にすら思うかもしれない。
コンピュータ関連の4コマなんて、パソコン通じゃないと、そもそも理解できない。
失恋したばかりのひとには、同じような境遇の主人公の漫画に
泣けたりします。恋愛のはじめでウキウキな人には、ドキドキ少女漫画が
大傑作に思える。

つまり、
「僕が面白いと思っても、君にはつまらないかもしれない」
そういうことって、よくあります。

で、すぐ、
こういう話をしていると、
「面白いかどうかは、人それぞれ。個人の問題。
すなわち、『面白いかつまらないか』とか言う事自体、
評価の基準にならない。基準になるのは、売れた数字、儲かった数字」
とか、わかりやすくて、頭の悪い話になっちゃうんですが、
それも、どうかと思う。

なぜなら、「育児漫画」というジャンルのなかにも
「面白いもの」と「どうでもいいもの」「つまんないもの」「読みたくないもの」
は、ちゃんとあって、
「ちやんと面白い育児漫画」には、育児していない人にも、ある程度通じる
「普遍的な面白さ」があったりするからです。

「ちゃんと面白い」ということはどういうことか。
簡単にいうと、まず、
「読めば、作者が何を言いたいのか、何が書きたいのかわかる」こと。

書き手と読者の間に「暗黙の了解」が多すぎると、
門外漢には理解できなくなります。
「暗黙の了解」は、ある程度、必要です。説明しなくてもわかることは多い。
書き手と読者の距離を縮める効果もありますし。
でも、「暗黙の了解」だらけだと、
「知らない人間」にとっては、目の前で内緒話を外国語でペラペラやられてるようで
頭にくるだけです。

話のスジがヨタヨタで、16ページの漫画で
14ページになって、「ああ、この主人公はこういうことがやりたかったのか」
と、やっとわかるような漫画は、面白くない。
もっと、ひどいのになると「主人公になんの目的もなく、アイデアもなく、
漫画のコマがただ並んでるだけ」のような漫画とか・・・面白くない。
こういうのを「面白くない」と評価して
「それは好みの問題だから」とか言うのは、気の狂ったような話です。

とにかく「わかりやすい」のが「面白くなる条件」。

で、「キャラクターが生き生きしている」ことも大切。
みんなが感じる、漫画の面白さの半分以上は「キャラクター」なんです。
ここは、小池一夫先生が言ってることが、全く正しい。

キャラクターは、ことさら目新しくなくてもいいかもしれません。
類型的で、どこかで見たなあ・・・くらいのほうが、
パッとみただけで「これは勇者だろう」とか「ゴマスリ男だ」とか
すぐわかるので、読者にとってもわかりやすい。
そんなことより、キャラクターが「生き生きして見える」ことのほうが大切。
「台詞」・・・とくに「リアクション」が重要。「ポーズ」とか「動き」とかも大切。
まあ、「 キャラがなにをやるか」の部分が「生き生きと」に大きく関わります。
何人かのキャラクターの人間関係、アンサンブルも「生き生きと」に、
つながってくる。

あとは、「ほー」と、思えるアイデアがあれば、文句なし。

この「分かりやすい」「生き生きしたキャラ」「アイデア」が
ちゃんと漫画になっていれば、
その漫画は、たいてい「ちゃんと面白い」です。

ギャグマンガとか、4コマなんてのは、またちょっと違うんですが。
ストーリーものは、だいたいこんな感じ。
これは、ページ数が多くても、短くてもかわらない。

ただ、もちろん、こういう話には例外が山ほどあって、
「めちゃくちゃなのに面白い」
「書いてる作者が異常だから面白い」
「おそろしくつまらなくて、ダメなところが面白い」とかいうのも、
実はたくさんある。

で、話は戻るんですが、
「面白い・・・というのは、個人的なものなんですが、面白さ・・・というものも
ある程度、説明できて、再現性のある・・・理論だった側面がある」
という話がしたいわけです。

「面白いなんていうのは、個人的な話だから、語る事自体、素人の感想めいていて
あんまり意味のあることではない」とか言いたがる
半可通が、漫画周辺には多いので、それがすごく嫌なんですね。僕は。

さて、話はさらに戻って。
「面白い漫画」が「売れる漫画」であれば、こんなにわかりやすくて
結構な話はないんですが、
実際のところ、そんなに簡単な話じゃないです。

「面白い漫画」も、ちゃんとそれを喜んでくれる読者のところに届いて
読んでもらわないと「面白い」と思ってもらえない。
つまり「売れない」。

つまんない漫画でも、ゲームとかオモチャ、アニメでメディアミックスして、
大騒ぎして、なんとなくムーブメントを作り出せば
「売れる」ことは多い。
「売れてる」と、「あれは面白いのかな」と勘違いして、また売れ、
あんまり難しいことは考えたくない読者は
「売れてる=面白い」というふうに、世の流れにドッと流されて
「面白い、面白い!」とか、勘違いは蔓延し、
数の上では、商売としては「それが正しい」って、ことになる。

でも、それは勘違いで、
「売れる」と「面白い」は、全然違うことなんです。
(漫画だけでなく、映画でも、音楽でも、演劇でもそうなんでしょうが)

ところが、これを一緒にしている人が、物凄く多い。
版元の編集者の半分以上が勘違いしてます。
漫画ファンだ・・・という読者も、かなりの割合で一緒にしてる。
何が、頭痛いかというと、
そう言った人たちは、自分たちが正しいと信じていまして、
それは無知とか、勉強がたりないことが原因なのに、
それを恥じるばかりか、これが正しい、なんでお前はそう思わないんだ?
とか、こっちに説教したりしてくるのが、タマラナイ。

過去に、漫画雑誌に配属されてきたばかりの新人編集者に
「売れる漫画って、どんなのでしょう?」とか
雑談をもちかけられ、流れの上で、しかたなく、
今のようなことを説明したことがあるんですが・・・・。

「ヘ〜〜! 
売れる漫画と面白い漫画は違うんですか?
知りませんでしたあ〜〜〜! 
へっ! そんな話は、編集部で聞いたこともありませんね!」
みたいな、挑発的な態度をとられ、
ぶんなぐりそうになりました。

若い漫画家見習いみたいな人にも、最近、
「売れる漫画って、どんなのでしょう?」とか聞かれ、
「そんなの、よくわかんないよ、陳腐な状況判断ならできるけど。
そんなもとより、自分が書きたい漫画を、より面白く書けるように
努力したら?」って、言いましたが、
わかってくれてるのでしょうか。

漫画学校の先生の話を聞いてても、
「売れる漫画」と「面白い漫画」を、どこまで切り分けて考えてるのか
疑問に思うことがあります。

「売れる漫画かどうか」は、商売人である編集者が
トレンドなことにアンテナをはり、いろいろ考えることで、
商売の現場で発生する事実。それに従うかどうかは
漫画家の、職業としての判断でしょう。

勉強したり、教えたりできるのは「面白い漫画を書くための基本」で、
それが、そのまま「現代漫画雑誌の現場」に通用するかというと、
それは通用しないでしょう。
今ふうにアレンジされ、編集者に売り出されないと、通用しない。

でも、勉強って、そういうもので、
学校で真面目に勉強したことが、そのまま社会で通用することなんてない。
教えられることは、伝統的で、古くさい、「基本」だけだと思います。
どういう種類の学校でも。

それが、学校の先生から「売れる漫画」「商売になる漫画」「ビジネス」
なんて言葉が出てくると、
それは「漫画編集者の学校」で教えることなのでは?
とか、思ってしまいます。

なかなか難しい。
そのうち、また考えます。
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by uorya_0hashi | 2007-05-31 12:36 | 漫画関連

殯の森

カンヌで賞とった、劇場にまだかかってない
新作が、NHKハイビジョンで先行放送されたので
大画面鑑賞しました。

いわゆる普通の映画じゃなくて、芸術映画ですね。
ビクトル・エリセの映画みたいに
「わざと舌足らず」に作って、あとで
見た人間に「あれは何だったんだろ?」と、考えさせる映画。
簡単に言うと「わかりにくいとこがたくさんある映画」。
見る方に、想像力とか推理力を要求する映画。

見ていて、一番、困ったのは
認知症の老人が、森の奥深く迷いこんでしまう・・・
その「理由」が、最後まで、観客によくわかんないこと。

それを「謎」としておいて、観客の興味をひきつけたいなら
「さて、この人は、どうして森に入っていっちゃうんでしょう」
と、問題提起して、少しずつ、バラしていくとか
すればいいのに、そこらへんが舌足らずなため、
「ボケ老人が、ボケてるから、森に、どんどん無茶苦茶に
入って行ってしまうだけの映画」に、
映画見てる間は見えてしまいます。

だから、途中で、しんどくなって眠くなる。
ヒントをもう少し、わかりやすく出してくれ。
俺は馬鹿だから、よくわかんねえぞ。

あと、森の中は、もっと象徴的な・・・
水木しげるとか宮崎駿が描きそうな「深山」にして、
霧とか立ち込めて、幻想的で、絵画みたいに美しく
撮ってほしかった。そんな山、海外でもいいから
探してロケして見せて欲しい。お金かかるだろうけど。
地元の奈良で撮ったらしいけど、秩父の山と変わらない
ようなショボさがガックリ。絵が貧しい。

と、いうのは、里の、茶畑や田んぼの光景が
美しすぎて、それと比較して、森の中が
ショボく、汚らしく、スケール小さく見えてしまうから。
もっと有無を言わせぬ、縄文的な、広大な森に
していただきたい。CGでもかまわんから。

でも、ま、
文句言ったけど、話はいろいろ考えさせられるし、
話に「大きなスジ」は通ってるし、いい映画でした。

あと、おどろいたのが、5.1CHの使い方。
すごく積極的に使ってました。
森の中は、森の中にいるようにサラウンドしてる。
さらにすごいのが、ボケ老人のいる老人ホームの中の音。
たくさんの年寄りが、てんでんバラバラに
ブツブツとボケた独り言を言ってるのが、
必要以上にクリアに聞こえ、「うるさいよ!」とか
言いたくなります。
こんな攻撃的なサラウンド、邦画では珍しい。
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by uorya_0hashi | 2007-05-30 12:46 | 映画関連

漫画に愛を叫んだ男たち

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長谷 邦夫先生の「自伝」です。
先に、長谷先生が漫画で書いた評伝「赤塚不二夫 天才ニャロメ伝 」を
読んでいたので、
「ああ。この『漫画で愛を』が先で、そこから赤塚不二夫先生方面を切り取ったのが
『ニャロメ伝』なのか」という感じでした。

内容的には、「重い事実」の積み重ねで、ドスンと来ます。
で、面白かった。
アマゾンのレヴューのとおりです。

ただ、アマゾンのレヴュー以外の部分で
思ったのは・・・。

赤塚先生、80年前後から、あんまり真面目に漫画に取り組まなくなったりして、
芸能やテレビ関連の活動に力を入れたり、浮気やアルコールに耽溺したりして、
読んでると、「読者を無視して、どんどん自分勝手に荒れて行く」みたいな
展開になるんですが・・・・。(ここらへんも、スリルがあります)

その原因が、
月刊誌時代から、週刊誌の時代に突入し、
さらにサンデー、マガジンとライバル雑誌を掛け持ち、
その上に、他の雑誌にまで執筆する。
で、しかも、アイデアが重要な、「読み切りギャグ漫画」で、
ネタを考えるだけで、死にそうになる・・・
というか、「そもそもムリだ」という量と質を両立させて頑張った・・・・
という、「殺人スケジュール」にあると思います。

もう、イヤになっちゃった。面白いこと、他にないかなあ。やだやだ・・・・
で、赤塚先生、どんどんヒドイことになっていった・・・。

僕は、そう思うのですが、
この本を読んでいると、そこらへんの「無茶苦茶なオーバーワーク」が、
あんまり伝わって来ない。

読んでると、「赤塚は依存心が強いから」「自分ひとりでは考えられない」とか
いう部分が、きわだつような感じがあり、誤解を生むと、思いました。
そもそも「自分ひとりでなんとかできる量」じゃないのに。

漫画を書くのって、たとえ1本でも、
普通の人が考えるのよりは、遥かに、手間ひまも、頭も使うことだと思うんですが。
たとえ、たくさんのアシスタントを使っていても。

長谷先生自身が、「漫画家」で、
「漫画を書くのが大変なのは、自明のこと」「説明不要」みたいな部分もあるのかな。
それとも、赤塚先生や、長谷先生が、お手本にした「手塚先生」が
もっとすごい「化け物みたいに一人で頑張る人」だったので、
それと比較して、「依存心」とか「ひとりでできない」って、言葉がでるのかもしれません。

でも、「普通の漫画家」や「普通の職業の人」から見たら、
まず「気違い沙汰の仕事ぶり」。

そのために、長谷先生はじめ、古谷先生など
アイデアブレーンがいて、多くのアシスタントがいて、
そして、大量の「質の高いギャグ漫画」を量産していた。

そういうシステムが必要になったのは、当然なことだし、
そういうシステムを作り上げることができたというのは、
中心にいた赤塚先生が、天才的にヒラメキがあったから、そして、
それを作品に定着させるだけの力があったから。
なおかつ、人間的にも魅力があったから・・・。頭が良かったから。

だから、多くの人が、 創造的な雰囲気にひきつけられて、
フジオプロが繁栄したのではないのでしょうか。

そこらへんが、読んでて、あんまり感じられませんでした。
スケベでゲスなところばっかり・・・みたいな。
そういう部分が強烈だから。

なんか、赤塚先生って、若い時から、かなりメチャクチャで、
普通なら「つきあいきれないひと」って、だけのような。
読んでいると。

でも、アイデア会議で、ネタ拾って、それを作品にまとめあげて、
「人情話」にからめたりする、あの手腕は、
「当人がそういう、人情的な人だから」という部分があるからだと思うし。
長谷先生がコンビを組んで、裏方に回ったのも、
そういう「人間性」に惚れたんだろうし。

そういう「人間的で、才能もありまくったひと」が、
殺人的な忙しさで、オカシクなって、
どんどん悲惨なことになり、漫画もボロボロになる・・・というところが
悲劇的だと思うのです。
で、そういう相棒の女房役を、ずっと勤め上げた長谷先生が、
また悲劇的だ・・・というところが、たぶん、この本のキモなのでしょう。

この本では、「細かい事実の積み重ね」が正確に書かれていて、
そういう ヤボなことは、文章にしていません。
そういうことは、読者が感じ取ってくれ・・・ということなのですが、
「漫画を書くのって、そもそも重労働」という部分が、
普通の一般読者の頭の中に「ない」と思いますので、
誤解されると思いました。

「赤塚は、わかい時から、すでに鬱病だったのではないか」
「でも、僕ら周りの人間は、誰もそれをわかっていなかった」っていう
ものすごく重要な話が、巻末のほうに、チョコッと書いてあるんですが、
ここは、もっと、わかりやすく、ドバッと大きくページを割いて、書いて欲しかった。

なんで、赤塚先生も、藤本先生も、石森先生も、寺田先生も、手塚先生も、
あんなに漫画を愛していたのに、こんなに悲惨なことになったのか。
「まんが道」の行く末は、こんなに物凄かった・・・。
で、その後の世代の漫画家は、先輩たちの有様を見て、
早々に引退したり、「書かない」ことを芸にしたり、あんまり糞真面目にやらないように
しているような感じがするのも・・・アレですが。どうなのかなあ?

なぜなんだ! 悪いのは誰だ! 読者か、版元か、社会か、作家当人か?
そこを、ズバズバ、遠慮なく、死んだ仲間の復讐のために書いて欲しかった。
そういう本だと、思ったんですが・・・・違うのかしら?

この本、よくわかってない人が、普通にボケ〜ッと読むと、
「赤塚先生は、仕事に飽きて、真面目に仕事しなくなり、アル中になったダメ人間」
「長谷先生は、それを我慢して立てた女房役」
「女房役がダメ亭主の駄目ぶりを暴露した、一種の暴露本」
みたいな、スケールの小さい本に思われてしまうようなところがあって、
そこが心配です。

でも、とにかく、この本は面白い。
「ああ、そうだったんだ!」の連続でした。
なにしろ、曙出版の「おそ松くん全集」から、「赤塚不二夫全集」
「バカボン」「ア太郎」「レッツラゴン」「ギャグゲリラ」あたりまでが
バイブルの、ハードコア赤塚キッズでしたから。
長谷先生の「しびれのスカタン」も、全3巻、「絶対面白全部」とかも、持っていますよ!

(以下、あとで付け加えた文章)
あと、細かい部分で印象的だったのは、
赤塚マガジンとでも言うべき「まんがNO.1」の創刊パーティで、
いろんな業界人が蒼々たるメンバーで集まるのですが、
なぜか、漫画家がいない・・・というくだり。
それだけ、当時の赤塚先生は漫画家仲間から浮いていたのでしょうか。
他の漫画家仲間と、ゴルフでもたしなんでおけば、
無難な老後を迎えたような気もします。

でも、新しい刺激を求めて、いろんな人と交流したかったんだろうな。

長谷先生は、別の漫画雑誌の創刊パーテイの事も書いてます。
そこで、藤本先生と会い、
「こんなにハデにパーティやっても、あっという間につぶれちゃうんだよな。
そんなもんだよね、この業界」みたいなドライなこと言われて・・・
実際、すぐつぶれました・・・・とか、いう下りなんですが。
それが、そのまま「まんがNO.1」の話の下絵みたいな話で、実に怖い。
藤本先生は、どうもドライで皮肉屋だったような感じもします。

「まんがNO.1」の創刊パーティでは、おおかたの出席者は
「いい雑誌になりそうだ。頑張れよ」とか
無難に励ますんですが、
当時、映画評論家というか、喜劇評論家みたいな感じで、
たぶんギャグには日本一ウルサイ人であったろう「小林信彦」だけが
長谷編集長に噛み付いてきます。

「新雑誌の表紙は、3号連続で横尾忠則なんだって?
駄目だ。そんなの。絶対反対。赤塚さんの絵を表紙にしろ!
でないと、すぐつぶれるぞ! この雑誌」とか、言い張ります。

「冒険心で、『3号連続横尾表紙』にしたのに、なんてツマラナイこと言うんだ!」
と、長谷編集長は、聞き流すんですが、
その後も、小林信彦先生、長谷編集長のところへ
電話まで何度もかけてきて「横尾表紙は駄目だから、赤塚の絵にしろ」
とか言ってきます。
「うるさいなあ。この人、ちょっとおかしいんじゃないの?」
みたいに思ってたみたい。長谷編集長は。

で、創刊号が発売されると、全然売れません。
売れないどころか、本屋に置いていないらしい。
「なんでだ!?」真っ青になって、原因を調べると、
実は、「まんがNO.1」、エロ本の会社が販売元になって、雑誌コードをとって、
取次に回ったらしいのですが、
本屋さん、「なんだこれ? これ、エロ本の会社のだろ? 変な表紙だなあ・・・
こんなの売れない! だから、置かない! もう、並べないで、返しちゃおう」
とか、瞬時に判断して、返品してたらしいのです。
エロ本だと思ってる雑誌の表紙が横尾忠則なら、「わけわかんない」と思われて当然。
「まんがNO.1」つうタイトルも良くなかったかも。
「まんがニャロメ」くらいのほうが、「ああ、ニャロメね」って思ってもらえたんでしょうね。
作り手の趣味とか意識が、時代を先行しすぎたのでしょう。

・・・「だから、言ったのに! 
なにも考えず、バカボンの表紙にしとけば、漫画雑誌のとこに並べてもらえたのに。
なにやってんだよ!」・・・つう、ことだったらしいです。
小林信彦先生の意図は。
さすが、江戸川乱歩の最後の弟子みたいな系譜のひとで、
ヒッチコックマガジン等の推理雑誌の編集長をやった、小林先生ですね。
そこらへんを、ちゃんとわかっていたのでしょう。

小林信彦といえば、「世界の喜劇人」や「日本の喜劇人」。
喜劇映画の中の「細かなギャグ」について、分類、整理した
著作で有名です。テレビとか映画でも、ギャグライター、ネタだしを
やっていた人。ギャグの銀行みたいな人です。
当時、日本一だったんじゃないですか。ギャグに関しての知識は。

で、そういうひとだから、
当時、日本で一番、サイレント喜劇や、ハリウッドコメディの面白さを
うまく漫画に取り入れていた赤塚先生に
特別シンパシーを感じていたんでしょう。
そんなの、漫画、読めば、わかりますから。

で、親身にアドバイスしたつもりだったんでしょうが、
フレンドリーとは言いがたい伝え方をしてしまったために、
かえって、裏目に出たんでしょうね。

小林信彦先生も、赤塚先生も、そして長谷先生、
みなさんの著作が、大好きな僕としては、かなり残念な・・・。
「なんという皮肉な。ちゃんとコミュニケーションがとれていればなあ」
と、泣けてくるような一幕でした。

小林信彦と赤塚不二夫のギャグ対談って、全盛期にやってたら、
さぞや、凄かったろうになあ。
たぶん、1回もやってないよね。性格が合わない感じもありますね。
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by uorya_0hashi | 2007-05-21 01:16 | 漫画関連

謎のマンガ家・酒井七馬伝—「新宝島」伝説の光と影

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この本の著者、中野晴行さんの本は、過去に、何冊か読みました。
「漫画産業論」という本も、すごく面白く、ためになる本でしたので、
この本も読んでみました。

この本については、ここにちゃんとしたことが書いてあります。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_dcb5.html
すごく、ちゃんとした、労作でした。面白かった。

で、僕が思ったことは、ひらたく言えば
「新宝島」の「面白さ」は、かなりの部分、酒井七馬によるものだった・・・
んだろうな・・・ということです。

漫画の面白さは、ネームで7割がた決まるんです。
ネームというのは、構成といいましょうか、
ページにコマわりし、そこに「どういう絵をかくか」「どういうセリフをいれるか」
を指示したもので、いわば、簡単な「下書き」です。
絵が、ペンできちんと書いていないだけで、
読んでみれば「ちゃんと漫画になっている」そんな段階のもの。

その「ネーム」をやったのが酒井七馬ということですから、
「新宝島」の手柄は、かなり七馬先生に負うものが大きいでしょう。

この本によると、
若き手塚治虫が書いた大長編「オヤジの宝島」という漫画があって、
それが、本にするには長編すぎる・・・のと、
話が破綻していて、結末まで書かれていないものだったようです。

それをもとに、酒井七馬が、アニメ作り、映画作りの経験を生かして、
ネタを取捨選択、交通整理して、規定ページ数にまとめたネームをつくり、
手塚治虫が、本格的に「下書き」「ペン入れ」「仕上げ」したものが
「新宝島」だったらしい。
一番、面白さに貢献する部分、勘所をやったのは、酒井七馬だろう・・・。


いまふうに整理すると、
原案/手塚治虫
原作(構成)/酒井七馬
作画/手塚治虫
ってことのようです。

で、本は、酒井七馬のツテで、版元が決まって、発売された。
当時、酒井七馬は、関西漫画界の大先生。
手塚治虫は、有望だがデビュー前の学生。
そういう立場の違いもあってか、
初版単行本の著者奥付けは「酒井七馬」のみ、記載され、
それが悶着の種となって、手塚治虫は酒井七馬と絶交・・・
ということになった。

でも、この流れでいうと、奥付けが「酒井七馬」だけになったのは、
正しいことではなかっただろうけど、
「それはしょうがないんじゃないの?」という感じの話。
だいたい出版界って、そんなところですから。
新人は、ごく普通に、当然のように搾取される。

でも、若い手塚治虫には、我慢できなかったのでしょう。
愛着ある「自分のこども」を好きなように、切り刻まれ、
書き直されて、我慢していたのに、奥付けに名前も載らない・・・とは!
くらいの気持ちだったんでしょうね。

でも、この本に載っている「新宝島」の図版を見ても、
「新宝島」の画面構成は、すばらしく良くて、非常に映画的。
手塚治虫の「オヤジの宝島」とは、一目瞭然で、こっちのほうが良くて、面白い。
誰のおかげで、こうなったか?
普通に考えたら、アニメ映画をそれまでに何本もつくった
映画作家でもある酒井七馬の手柄でしょう。
酒井七馬は、また、非常に絵がバタ臭く、アメコミなども勉強していて、
アメリカ映画独特の奥行きのある構図などもマスターしていたようですし、
読者である子供が何を喜ぶか・・・も、経験で掴んでいた。
そういうことが、「設計図=ネーム」に指示されていたはずです。
手塚治虫は、絵を書きながら、いろいろ気がつき、勉強になったんじゃないでしょうか。

でも、後年、手塚治虫が漫画で大成功し、
「漫画の神様」とまでいわれる過程で
「あの新宝島で、映画的手法を漫画に取り入れたのは手塚治虫」という伝説が、
ひとり歩きした。手塚治虫も、そういうことにしておきたかった。
「漫画に映画をとりこんだのは手塚治虫」というのは
ものすごくわかりやすい。便利な物言いです。自分にとって、都合がいい。
と、いうことで、手塚治虫もあえて
「いや、あの映画的手法は、酒井先生の手によるものでして。僕は、その指示に
したがって、できるだけいい絵を書こうと、勉強しながら、書いただけですよ」
なんて、つまんないことは言わなかったんでしょう。

酒井七馬のほうは
「世間が、新宝島は手塚治虫の手柄。革命的デビュー作・・・つうんなら、
それならそれでええやないか。そんなことで、手柄を主張したり、
やぼなことできるかいな。手塚くんつうたら、ワシの愛弟子やで」
なんか、そんなかんじで、世間の勝手な「伝説」に反論しなかった。

で、自分は、手塚治虫のように、関西から上京して、活躍するということは
最後までしないで、大阪にとどまったまま、紙芝居や挿絵、アニメの仕事で
地味に、地道に食いつないで、
後世にのこるような大仕事がないまま、一生を終わらせた。

この本には、そんな感情的で、やすっぽい文章はありませんが、
詳細な記述をざっくばらんに咀嚼して、想像まじえて、
知らない人にわかりやすく言うとすれば、
そういう本でした。

非常に、酒井七馬というひとが可哀想だった。
才能もあって、勉強家で、努力家だったのに、
ツイてない人生で、紆余曲折があり、
しばしば商売替えしたばかりに、「りっぱな単行本」を出して
世に名を残すようなことにはならなかった。

勉強家で、努力家ですから、
「どこをどういじると、どうなる」みたいな「理論」がある人だったのでしょう。
だから、その「理論」を人に教えたくなる。
若い漫画家見習いみたいなひとに、親切で、世話好き、教え好きだった・・・
という話もあります。
今の時代なら、漫画専門学校、大学漫画学部などで
そういう資質を、よいほうに発揮できたかもしれません。

でも、哀れなことに
最大最強の弟子「手塚治虫」には
「あの人は師匠じゃないです。デビューに力を借りただけ」みたいな扱いをうけるし、
晩年は、漫画家見習いみたいな若いひとにも
「酒井七馬なんて、知らないよ。ヘンな爺さんだな」とか、扱いに。
「最後の内弟子」と、酒井先生当人は思っていた、若い漫画好きのウェイトレスにも
「え! 酒井先生は、あたしのこち、弟子だと思っていたんですか。
こちらは、世話好きのおじいさんだなあ」くらいにしか思ってませんでした」
とか、言われちゃうの。
それじゃ、もうろくした爺さん以外の何ものでもない。

誰もが知っているビッグな「漫画作品」で、有名になっておかないと、
漫画家なんて、年を取ったら、いわば身内の、子供たちにも
こういう扱いを受けるんですね。

酒井七馬が、手塚治虫のネガのように、
「貧乏のどん底で、コーラしか飲めずに、最後は餓死した」という
漫画ファンの間では信じられている伝説は、まったくの嘘ということが
この本では明らかにされています。
が、晩年は、哀れなくらい、漫画関係者に軽んじられていたみたいです。

すごく「いい絵」をかく先生で、
漫画もうまくて、歳行っても、なかなか衰えず
全国的には目立たなくても、良い作品をたくさん書いた先生なのに・・・・
(それは、この本の図版を見れば、すぐにわかります)
あんまり、哀れで。
世間が、そして「いわゆる漫画ファン」が
あまりにもワカランチンなので、泣けてきます。

作者の中野さんは、できるだけ客観的に冷静に書こう・・・というスタンスなのですが、
それだけに「冷たい現実」「世間って、こうなのよ」「成功者ってそういうもの」
「みんな過ぎ去って、みんな忘れ去られていくものなの」とかいうモノを
切々と感じてしまって、
僕は、非常に、寂しくなりました。この本を読んで。

きっと、僕も、酒井先生のようになるんだろうなあ。
実力の話じゃなくてさ。
自称漫画家のおじいさん・・・ってことだけど。
ああ、嫌だな。

それにつけても、原本の「新宝島」、どこかで復刻しないものかな。
なんで出さないんだ! 変じゃねえか!
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by uorya_0hashi | 2007-05-12 00:54 | 漫画関連