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みなもと太郎画業40周年記念パーティ 02

と、いうわけで、パーティに行ってきました。

行くと、参加者がかるく100人はこえる盛大なパーティで、
有名な漫画家さんたちが山ほど来ていました。

思い出してみます。
長谷邦夫、バロン吉元、あさりよしとお、とりみき、唐沢なおき、一峰大二、水野英子、
里中真智子、高信太郎、いしかわじゅん、夏目房之介、一本木蛮、すがやみつる、
近藤ゆたか・・・
ええと、重要なひとで、まだまだたくさんいたような。
思い出したら、書き加えますが、とにかく、なんか凄かった。

漫画周辺の有名人もたくさん来てました。漫画評論家とか、編集者とか、
プロダクションのひと、熱心な漫画マニアも。
もちろん、呼んでくれた中野晴行さんもいました。ありがとうございます。

俺なんかが来ていいのか・・・という感じで、
居場所がなくて、オロオロという感じだったのですが、
こないだの「酒井七馬の紙芝居を都電で見る会」で
一緒だった、通称「うっち〜」さんという、若い漫画マニアと、
「漫画家が肉声をふきこんだレコードを集めている」という
「そんなヒトがこの世にいるのか?」とか言いたくなる感じの
漫画ファン、足立さんがいてくれて、助かりました。
ははは。やっぱね、知り合いがいないとキツイもんなあ。

漫画家の先生で、過去にお会いしたことがある人もおられるんですが、
そんなの忘れてるに決まっているしなあ。

でも、長谷邦夫先生とは、こないだの「紙芝居都電」でご一緒させていただき、
ウェブ上でも、おつきあいがあるので、またしても、うっち〜さんと、
むかしの「貴重なエピソード」を、ネホリハホリ、聞ける範囲で聞きました。

そして、もちろん!
みなもと太郎先生!
ステージで挨拶して、降りて来た所をすかさず、つかまえ、ご挨拶。
10年ぶりくらいなのですが、先生、ちゃんと覚えてくれてました。
さすが!  こういうとき、大男は、印象が強いからトクですね。
おととしだったかに、僕が、東スポで、「みなもと先生の絵のパロデイ」書いたことも
ちゃんと覚えておられました。

とにかく、あれだけのメンバーが、
画業40周年ということで、集まるというのがすごい。
アニメや同人誌関係の若い人もたくさん来ていたみたいだし、
そうそう、コミケの米沢代表の奥さんとか、
まんがの森(なくなっちゃったけど、有名なまんが専門店だった)の代表の印口さん、
現代マンガ図書館の内記さん、マンガ夜話の大月さんもいた。
すごいなあ。

みなもと先生はホモホモ7のコスプレも見せてくれたし、
なぜかガンマン姿のバロン吉元先生とモデルガンで一騎打ちしてました。
ま、そういうノリだったわけです。

現代マンガ図書館の内記さんが、挨拶されたとき、
「あの早稲田の漫画コレクションを、東京都に引き継いでもらうよう、
運動しているんですが・・・・。
みなもと先生が率先して協力してくれてます。
まだ、運動がうまくいったわけではないですが、
そういうことを『大事なことだ』ということで、前に立って、バンバン、協力してくれる・・・
みなもと先生はそういう人なわけです!」と、おっしゃってました。

あれには感動したなあ。
そういう「漫画マニアの漫画家」なんて、みなもと先生しか、いないよ。
すごい。

そのほか、僕がいた編プロの、おそろしく後の後輩で今はフリーの
ライターさんやってる若いひとに声かけられたり、
絶版漫画のオンデマンドをやってる、バカボンみたいな雰囲気のひと、
リイド社版の風雲児たちのカバーかいてるイラストレーターさんとも
仲良くなれて、うれしかった。
同じような嗜好の漫画ファンと語り合うのは、いつでもサイコーだ!
漫画家どうしで話し合うより、漫画ファンとして語り合うほうが
10倍くらい面白い。

また、巨大なパネルに、漫画家や参加者のみなさんが
みなもと先生にメッセージを書き込んでいた。
「俺なんかが描いたらマズイんじゃないの?」と、
はじめは遠慮してたんだけど、「ぜひ描いてください」と
係の人が言うもので、ヘタクソな絵も描いて来ました。

「どうせ描くなら、すみっこに描くなんて、つまんねえや!」
と、酔っぱらってたもんで、気が大きくなり、
わざわざ、かの「秋本治先生の直筆両津勘吉」のすぐ隣に
ここに来ている参加者の誰もがしらないであろう
「ショー四ランド」の「よっちん」を描いて来ました。ははは!
いっぺんでぶちこわしみたいな・・・・なんかそんな感じ。

まあ、日本一売れてる漫画家の先生のすぐとなりに
全然売れてない漫画家の絵があるのも、
それはそれで面白いことなんじゃないか。
そういう色紙なんて、みなもと先生のとこでしか実現できないだろう
と、瞬時に判断して、ある種テロみたいな行為をやってきました。
うはははは。
みなもと先生、ごめんなさい。秋本先生、ごめんなさい。
まあ、誰もそんなこと、気にしないだろ。

一応、写真は「使い捨てカメラ」で撮って来ました。
デジカメ、持っていくの、忘れちゃって。とほほ。
そのうち、スキャンして載せるつもりです。

パーティが終わり、出口のとこで
みなもと先生が、ホモホモ7のコスプレで参加者と握手。
ところが、僕の前にいた、女性は、先生と抱き合って。記念写真。

「ずるいなあ」と思ったので、僕の番になったとき、
とっさに先生に抱きつきました。
そしたら、バロン先生と撃ち合いしてたモデルガンで
撃たれてしまった。「死ね!」とか言って。

くそう、さすがホモホモ7はすばやい。
さすがだよね。ああいう切り返しが、すぐに出るとことかも。
実物がギャグ漫画。
先生、自分でパーティの司会やればよかったのに。
そしたら、もっと盛り上がったのになあ。

2次会も行きたかったのですが、
都合がつかなくて、うっち〜さんと退散しました。

帰ってびっくり。おみやげも凄かった。

ではまた。それはまた今度。
(最近、本当にブログがダラダラしてきたなあ。すみません。続く)
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by uorya_0hashi | 2007-09-24 22:42 | 漫画関連

みなもと太郎画業40周年記念パーティ 01

というのが、ゆうべ、新宿の厚生年金会館でありました。
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「参加しますか?」という招待状みたいな往復はがきが来たので、行ってきました。

なんで、俺みたいな無名な漫画家に、そんなもん来んだろ?
と、思ったら、「中野晴行さんの紹介です」とか書いてある。
こないだ「酒井七馬の紙芝居を都電のなかで味わう会」を
主催した、漫画評論家の中野晴行さんに、二次会のそば屋で
「僕、みなもと太郎先生、大好きなんすよ!」と
力説していたので、中野さんが気を利かせてくれたのだろう。

みなもと太郎先生といえば、「ホモホモ7」と「風雲児たち」で有名ですが、
「漫画が本当に根っから好きで、しかも子供の時から
ずっとリアルタイムで漫画を読み続けて来た漫画マニアの漫画家」としても有名。

意外なことかもしれませんが、
「本当に漫画が好きで好きでしょうがなくて、家のなか、漫画だらけ・・・という漫画家」は
少ないんです。
職業漫画家で、同時に漫画マニア、コレクター、漫画研究者、
「職業漫画家、趣味漫画読み」というひとは
何人もいない。
だいたい、週刊連載なんかやってれば、ひとの漫画なんか読んでる時間がないし。
漫画を人任せに出来るくらい、偉くなった先生だと、
趣味はゴルフ、お酒飲む事、映画、音楽、スケベなこと・・・
つうパターンが多い。
「趣味でも漫画読むなんて、どうかしてるんじゃねえの?」みたいな雰囲気が
漫画界にはあるんです。
「他人の漫画見ちゃうと、影響されちゃうし」「俺は駄目だなとか、うらやましいとか思うから」
あんまり読まないようにしてる・・・とか
「最近の漫画はもう、文法も違うし、萌えだのなんだのわかんねえし、もう読みません」
「昔の漫画読んでもなあ、懐かしいって思うだけだろ。関係ないね」とか
そういう雰囲気が、すごくある。
他人の漫画読んでも、自分が儲かる訳じゃないから、当然だろ・・・とも
思うけど、その「漫画愛のなさ」、身近に接すると、漫画ファンしては
いたたまれなくなるくらいの先生が多いんです。
みんな「実もふたもない言い方」するもんなあ。
表向きには、そんな顔見せないけどね。

思いつくだけで列挙すると
長谷邦夫、松本零士、みなもと太郎、いしかわじゅん、夏目房之介、唐沢なをき、
すずき寿ひさ・・・まんだらけの社長? あと、誰だっけ?
とか、そんくらいなんじゃないですか。

こういう人たちは、漫画界の中でも、かなり変わってる。
「自分の漫画はさておき」というスタンスが「当然のこと」になっていて、
「漫画愛」の観点から、他人の漫画を批評できるから。
しかも、それは「漫画の歴史」をふまえて、「いま流行っているもの」とかいう
ファッションじゃなくて「学問」とか「定理」とかそういうモノで語ろうとする。
漫画を書かない(書けない)評論家とは、また違う、
実作者ならではのスタンス。プレーヤー兼解説者もしくはコーチ。

よく「自分はそんなにたいした漫画、書いてないくせに、良く言うよ」とか
陰口たたく人もいますが、そういう チンケなものとは全然違う。

「マンガ夜話」とかの番組もあって、
だんだん、世の中にもそういうことが理解されてきた。

で、みなもと先生も、ずいぶん、漫画界で大切にされるようになってきた。
先生が、現役でばりばり頑張っておられるのと、
熱心にコミケに参加されて、若い世代や同人誌・・・
「版元とは違う漫画の世界」と積極的に交流されていることが大きいと思います。
オタクの世界でも「別格扱い」。これが大きい。

10数年前、もうぶっつぶれてしまった
お墓の石材の業界誌の編集者に、僕の友達がいて、
そいつは「風雲児たち」のファンだったものだから、
「歴史に関するインタビューの特集記事」を
みなもと太郎先生にお願いした。
で、取材の後の「接待」に、僕も呼んでくれたんです。
「俺は風雲児たちのことならわかるけど、それ以前のみなもと先生のことなら
お前のほうが詳しいから。お前だって、会いたいだろ?」
と、いうことで・・・。喜んで、飛んでいきました。

はじめて会ったみなもと先生は、なんか不機嫌そうでした。
こわいひとに見えた。
「 ファンだから・・・といって現れたこの大男は、どこの馬の骨だ」とかいう
顔をしていました。

でも、漫画についての細かい話・・・古い漫画の話になり、
「こういう質問すると、喜んで話してくれるだろうな」というネタを振り込むと
目は輝くは、声は高くなるわ、見ぶり手振り・・・
ハイテンションのバリバリになっていき、もう止まらない。
「本当に、ものすごく漫画が好きなんだあ」 って思いました。
絵物語や、日本古来の書画における「右尊左卑」の話など、
大学教授の講義を聞いてるようだった。
ものすごく楽しい時間を過ごしました。

で、ちょうど、そのころ、先生はコミケに参加しだしたころだったのかな。
「ぜひ、コミケのお店に来なさい!」とか誘ってくれた。
「絶対行きますよ!」とか、即答したのに、僕は、
「行列並ぶなんてやだなあ」とか行ってすっぽかした。

そしたら、山のように「同人誌」が宅急便で送られて来て、
恐縮するやら、感動するやら。「すみません、すみません!」の嵐。

先生が「今ふうのアニメ美少女を研究した」という
ピンナップ同人誌もありました。
「あの歳で、こんな絵を描くの? 描こうと思うのか? すごいなあ」って思った。
ふつう「これが俺の絵柄だ。なんか文句あるか」とか
ドカ〜ン!とふんぞりかえって、「読者に媚びるなぞ、やっていられるか」とか
言いそうな年齢、そして「立場」なのに、
ネチネチと舐めるような描線で
「アニメ美少女」を描いている。

「うむ。すごい。枯れるということがない。
これは、一種の変態だろう」と思いました。
そういう部分では「永井豪」と同じ。骨がらみのスケベ。二次元フェチ。
いや、永井豪先生はさすがに「自分の絵に淫する」みたいな部分は
ないから、ああいう感じでは、みなもと先生だけなんじゃないかしら。
こういう部分は「研究家」とか「勉強」という枠を踏み越えている。
20代の、 チンチンびんびんな若者ならともかく、
見かけは立派なおじいさんが、コレをやるかあ! って思いました。

なんて、カッコイイんだ!
しびれる。こういうかっこいい変態じいさんに私はなりたい。
スケベジジイとは全く違う、変態絵描きじいさん。いいですね!

こういう「変態絵描きパワー」と「純粋な漫画愛」、
そして「歴史の面白さを伝えたいという気持ち」。
今回は、語ることができませんでしたが
「ギャグだからといって、不当に差別されることに対する反骨心」
「漫画らしさが一番面白くて、武器になるよ」というようなモノが
40年・・・いや、それよりも長期間、
渦をまいてるのが、みなもと先生だと、僕は思っております。

だ、もんで、
招待状が来たから、いそいそと・・・・・。

しまった!
パーテイのこと、こういうことがあったよ・・・とか
書こうと思ってたのに、
前フリから「みなもと太郎讃歌」で
めいっぱいになっちゃったよ。

ま、いいや、それは、また次に書きます。

ブログなんか、そんなもんですよね.
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by uorya_0hashi | 2007-09-24 13:35 | 漫画関連

だらだらまんが道5 読者ページ追撃編

編プロ(ギャグバンク)でやった仕事は、
編集だかライターだか、絵描きだか、漫画家だか、モデルだか
とにかく何でやりました。5人しかいないんだもん。

読者ページなんか、だいたいのデザイン・フォーマットは決まってますから、
レイアウトなんかも自分でやります。
カラーページとか、大きい扱いのものはデザイナーさんに頼んだんですが。

文章は、もちろん自分で書きます。
読者ページには「進行役、コメンテーター」というか「DJ」みたいな
キャラクターがあって、それも自分で考えて、
そのキャラを演じつつ、ハガキを紹介。コメントするわけ。

キャラクターの絵は、時間があれば、自分で書きましたが、
絵を描くのは時間がかかりますから、たいていは
編プロの中のイラスト担当になった「中村亮」に書いてもらいました。

そのうち、キャラクターは、書き手がコスプレして
写真とって、それですませよう・・・ということになり、
覆面かぶったり、アラビア人になったり、侍のかっこうしたり、
どんどんワルノリしていきました。コミケ状態。

「考えてみたら、本人がやることないぞ。
写真で出るなら、かわいい女の子が出た方が読者は喜ぶだろう」
と、いうことで、社長の奥さんが地元のスーパーでみかけた
美少女をモデルとしてハント。
スタジオ借りるお金がないので、日曜にO文社に出かけ、
誰もいないロビーに、写真撮影用の馬鹿でかいロール紙ひいて、
その娘を激写。(さすがにカメラマンはプロを頼みましたが)
で、読者ページのなんとかちゃんとして、登場させた。

原稿の方は、みんな僕らが
女の子のフリして書いてたんですが。
モデルになってくれた美少女の中には
のちに、美人ゴルファーとしてテレビに出るようなコもいましたね。

で、デザインです。
見出し、小見出し、呼び込み、写真、キャプション・・・
版元のレイアウト用紙にガンガン、デザイン。
自分たちでやるから、写真を割り付けるための投影装置、トレスコが
必要になり、社長がどこかのつぶれたデザイン事務所から
タダでもらってきました。100キロ以上あって、
運ぶのに死にそうになりましたが。

デザインは・・・ほとんど素人ですから、不細工になりますが、
そこはネタとアイデアでカバー。
やってるうちに、なんとなくコツもつかみます。

で、レイアウトに「ま、こんなもんだろ」という絵のスペースを開けておいて、
字数に合わせて、原稿をガンガン書く。
どんなページにも、それらしいオチをつける。これがギャグバンクの流儀。
「我々は活字のコメディアン!」

で、活版、写植をくむよう、版下のほうに頼む。
上がってくるまでに、イラストを書いてもらう。絵はいつも「後送」でした。
中村が死にそうになって、一月で300点くらい、カットを書いてました。

僕も、絵が書きたいのですが、中村よりヘタだったし、
「お前は文が書けるんだから、こっちをやれ」つうことで、
ライターのようなことばっかりでした。

企画とかも、ずいぶんやりましたねー。
数だけはもうメチャクチャにやりました。

文字通りの「ヘタな鉄砲」です。全然あたらないんだけど。
版元って「なにか企画を!」とか言う割には
「自分で思いついたことしか、良いと思えない」ひとが多いから
ほとんどやってもムダなんです。

ボツにされて、半年くらいたったら
「俺が考えたんだけど、この企画をやれ」とか言ってくる。
これ、前に没になったやつだよなあ?
すっかり忘れて「自分で考えた」とか言ってるぞ。
でも、モメるのはやだから、「さすが!」とか言って
仕事もらっておこう。この人が考えたと思わせておいたほうがよい。
とかね!


読者ページが好評で、
学習ページとか生活記事もやらされました。
「部屋のもようがえ大作戦」とか「ちょっとしたお洒落」とか、ああいうの。
たいていは、アンアンとかノンノとか読んで、適当に中学生むけに
アレンジするだけという・・・ほとんどパクリ。
でも、イラストとか見せ方、切り口が違えば、「面白いんじゃないの」ですみました。

「まいったなー」なのは
「モテモテ大作戦」とか「彼女に好かれる、中三男子28の心得」とか
そういうの。
全然、恋愛経験もないのに、ポパイとかホットドックプレスを読んで
パクリまくる。
さすがに胸が痛みました。
こんなにモテない僕が、ウソばっかり書いてる・・・と。

まあ、それも面白かったんですけど。
あとで、なんとなく役にたったし!

一番嫌だったのは、取材モノのアポ取りでした。
版元の雑誌は有名なので、その名前で、いちおう信用されるんですが
編プロの名前が「ギャグバンク」だったので、
信用されにくく、軽く一蹴されたりする。
「ギャルバンク?」「愛人バンクか! ふざけるな!」とか。
あれはめんどくさかった。
そういう意味では、編プロの命名、おおいに失敗。
だから、あとで、ギャグバンクは「G.B.」と名前を変えます。

まあ、編プロの名前のことだけじゃなくて、
僕は「ちゃんとした社会人としての教育」がなされないで
「学生のまま、なんとなくプロになった」ので、
いろいろトラブルがおきたんですよ。

で・・・・。
「口のききかたがなっとらん」だの「変に態度がでかい」とか
「そのでかい図体はなんだ!」とか、なんだかわかんない理由で
メチャクチャをいわれました。
そんなこんなで、そういう、世の中に少なからずいる、
つまんないタイプの偉いひとが苦手になってしまい、
その流れで、アポ取りとか「プレゼント用のものあつめ」とか
「話をつける」という「営業的センス」がどんどん退行し・・・。
それが、どんどんしんどくなって来ました。

クライアントとしてふんぞりかえって
朝令暮改をくりかえす親分に
「あれ? こないだ言ってた事と逆ですよね」とか言っちゃって
大問題になったこともある。あれはヤバかった。
社長が助けてくれたんだけど。

ま、おおいに問題のある若僧だったわけです。
(いまでは、さすがにそういうのはバカだなあって思うけど)

・・・と、いうわけで、仕事は面白かったんですが、
いろいろ、問題もでてきたし、
「それをなおせ。だからダメなんだ」とか
言われると、だんだんと
「考えてみたら、俺、漫画家になりたかったんだしなあ。
そんなに好きでもないことで、我慢すんのは、ちょっと・・・・。
本当に好きな事のことなら、辛抱するけどなあ。」みたいな、
「若僧特有の生意気な心」がムクムクと起きてきました。
社長に世話になったこととかは、あんまり考えない。ダメですね。

まあ、まだ23歳とか24歳とか
そんな歳でしたからねえ。
そんなもんだよなあ。

(えんえんと続く)
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by uorya_0hashi | 2007-09-21 15:14 | だらだらまんが道

だらだらまんが道4 読者ページライター編

で、ですね。
編集プロダクションにいたのは、
大学卒業して、2年かそこらで・・・・編集とライターのまねごとを
やったのが、バイト時代ふくめて3年間くらいだったと思います。

主にやったのは、中学生むけ学年誌の読者ページの構成と執筆。
あの当時・・・80年代なかばは、まだ
深夜AM放送も元気でしたし、ハガキ職人もたくさんいて、
一月に1000枚とかハガキが来てました。
今から考えると、信じられませんが、大変もりあがっていた。

それを仕分けして、読んで、面白いの、つかえそうなのを選ぶわけです。
大事なのは、「コーナー分け」で、
読者がハガキを送ってきやすそうなパターンで、
しかも構成する側がツッコミやすくて、
結果的にもりあがり、ハガキがバンバン来るようにしむけなくてはなりません。

当時、参考にしたのが、月刊OUTでさくまあきらさんがやっていた
「さくま学園」ですね。ああいうのを、おおいに参考にしました。

さくまさんは、その後、テレビゲームの作家として有名になるのですが、
80年ごろは、漫画評論家と、読者ページの大作家&フリーライターでした。
僕が、所属した編プロの親分、せとたつ先輩とも、
大学はちがうものの、同期で、遊び仲間だったということもあり、
また、別の系統で、法政の漫研がお世話になったこともあり、
大学時代、あるいは社会人になってからも、何度か会っていただいて、
いろいろ薫陶を受けました。

それによると、読者ページは「最初の呼び水」となる
「やらせ」というか「作り」のハガキが大切ということ。

そのアイデアが面白くて、読者のなかでも「カンのいいの」がノッてくるように
しむけなければならない。で、くいついてきたら、それを
逃さず、ちゃんと載せて、できたら続けて載せるようにして
「常連」を育てる。数人の常連が競い合うようになれば、
ほっておいても盛り上がる。
最初の「コーナー分け」のアイデアと「呼び水」「常連をつくる」とこまでが
腕のみせどころで、そこで人気はだいたい決まってしまう・・・
そんな感じでした。

さくまさんだけでなく、せとたつ先輩からも多くを習い、
自分でも試行錯誤した結論が、上のようなものなので、
どこまでが習ったものなのか、曖昧ですが。

とにかく、最初の「自作自演」が大切なわけです。
現代では「自作自演」は叩かれるのみの悪行なのですが、
昔は「それがヒケツ」だったのです。

で、こまかな話をしてもしかたがないので、しませんが、
読者ページの良い所は
「取材費がかからない」「ネタがむこうからふってくる」ことで
「他人のふんどしで相撲がとれる」。

読者のアイデアで、誌面が盛り上がれば、みんなが嬉しいし、
自分の評価も上がります。そこが面白い。

また、学年・・・というか、年齢、そして性別、
県民性によっても、いろいろ、読者が「おもしろい」と思う部分や
「食いついてくるネタ」が違うので、
そこらへんまで突っ込んでやれば、すごく勉強になります。
そういうところが、ものすごく面白かった。

その後、僕は、子供向けの「お笑い漫画」を書くようになるんですが、
こういう「読者ページ」の構成でつかんだことが、
かなり、役にたっていますね。

とにかく、「読者ページ」、作るのは最高に面白かった。

編プロにいて、「ちょっと困ったなあ」とか「嫌だなあ」と、思った事も
たくさんありますが、それは次に書きます。

(だらだらとどこまでも続く)
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by uorya_0hashi | 2007-09-18 11:49 | だらだらまんが道

だらだらまんが道3 ハ−0クイン受賞編

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↑大学漫研のころ。東京5大学合同展示会「うるとら漫」第一回記念写真。
真ん中に、取材に来た、生島ヒロシさんがいる。

前の記事から、時期はさかのぼるんですが。

大学生時代に書いた漫画の話です。

「うリ〜ぷか」という、法政漫研の同人誌に、
何回か書きました。
プロレス劇画とホラー漫画、アメコミ調のコント漫画だったような気がします。
ホラー漫画は、ちゃんと終わっていないダメな漫画です。

あとは、デビュー作。
当時、「現役大学生の描く漫画」が、ちょっとブ−ムでした。
柴門ふみとか高橋留美子も、そういうとこから出て来た。
その流れに便乗して
「大学漫研が描く漫画参考書」みたいな企画がいくつか
漫研に降って来たんです。
大学生に「学習漫画」書かせて、
家庭教師&安い漫画家&フレッシュな感性・・・ということなんでしょうか。

何冊か「イラスト」「一コマ漫画」の「漫画参考書」をやりました。
で、その流れで社会人になってから、
学研で「漫画でわかる日本史/世界史」をやって、それがたぶんデビュー作
になるのかな? ちょっと記憶が怪しいんですが。
それは、ギャグ調のストーリーふう学習漫画でした。

あとは・・・ハー0クインで賞を取った漫画があった。

大学漫研だということで、たまに「企画」が降ってくるんですよ。
ハー0クインロマンスが日本に進出して来て、
はじめのころ、女性向けだけでなく、男性向けアクション小説も出したんです。
ランボーと、007を合わせたような「マック・ボラソ」シリーズ。
それを劇画化しようという企画があって、
原作本の好きな所を漫画でかいて、出来がいいのが優勝という。

でも、80年代というのは、ラブコメ全盛で、ハードタッチの劇画は人気がなく、
ソレを、わざわざハー0クインで書きたいという人は少なかったらしくて、
応募者がほとんどいなかった。
審査員長は松本零2先生なのに、これじゃ格好がつかない・・・
ということで、ほとんどヤラセで、大学漫研のほうで
何人か「当て馬」みつくろってくれ・・・みたいな依頼があったの。
話、持って来たのは、慶応漫研のYくん。

新聞に発表するときに図版で使うから、5ページだけ
ハデな場面、書いてくれ・・・って言われた。
本当は30ページとかいうのが規定だったんだけど。

でも、誰もやりたがらないの。
そんなインチキに加担したくなかったのか、
めんどくさいからやだ・・・ってだけだったのか。よくわかんないけど。

「じゃあ、アメコミふうで俺が書くよ」って、名乗りをあげて、
出来レースに参加しました。
他には、明治漫研の誰かも参加したような気がする。

で、5ページしか書いてないのに「なんとか賞」もらったの。
すげえインチキ。賞金ももらいました。
誰もやらない仕事なんだから、当然なんだけど。
大賞とって、書き下ろし単行本を後に書いたのは、
ちゃんとしたベテランの劇画家の先生でした。
たぶん、最初から、決まってたんじゃないかな。わかんないけど。

漫画のほうは、真面目に書きました。
全然実力たりないんだけど、望月三起也を参考に
それをさらにアメコミ調にして、ネッチリ書いた。
5ページしかないから、なんぼでも時間かけて書ける。
兵器とかも、資料駆使して真面目に書いた。
ランボーとかコマンドーという映画が大好きだったし。
漫研にいた軍事マニアの何人かにも手伝ってもらったし。
ものすごく背伸びして、5ページだけ、でっちあげた。
一見、出来がいいように見えたかもしれないけど、
「見せ場」しか書いてないから、漫画になってないの。本当は。

でも、版元は喜んでくれたらしい。
コンクールが格好ついたって。
松本先生も褒めてくれた。お仕事なんだろうけど。
Yくんも、「大橋が頑張ってくれたから、メンツがたったよ」とかなんとか。

で、この慶応漫研のYくんが
後に朝日ソノラマの漫画編集部でバイトするようになって・・・
なんだかんだ仕事をくれるようになるの。
「大橋は、ちゃんとやってくれるから」とか言って。

本当は、「5ページだけなら、なんとかゴマカセるから、真面目にやりました」って
だけなんだけど、それなりに「漫画が書ける」とYくんは思っちゃったみたい。
ちゃんとした漫画なんて、2本くらいしか書いてないし、
「漫画書くより、編集とかライターのほうが面白い」って、
本当は思ってたんですが。そのころは。

(全然終わらない。つづく)
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by uorya_0hashi | 2007-09-13 13:21 | だらだらまんが道

だらだらまんが道2 ジプシー時代編

大学3年の終わり・・・正月前だったと思う。
法政漫研のほうに、OBが「仕事手伝ってくれ」と、言って来た。
要するにバイト。

その当時、O文社に中一時代〜蛍雪時代という
中学、高校の学年誌があって、
それぞれに「読者ページ」があった。

で、それを一括して下請けする編集プロダクションを作るんだけど、
そこのプロダクションで、
「子供のハガキ読んで、面白い読者ページ」をつくろうという
人間はいねえかあ?・・・という話。

O文社、全部の学年の読者ページを合わせたら、相当な分量になる。
したがって、人数も5〜6人必要・・・と、いう話。
話を持って来たのは、漫研のOB、せとたつや先輩。
すでに、O文社で、長年読者ページをてがけ、
デザインから文章、イラストまで一括して引き受けており、
それが好評なため、すべての学年でやることになったんだ・・・とか言う話だった。

今から考えると、結構いいかげんな話なんだけど、
編集とかライターの仕事に興味があった僕は
「ああ、いいすよ〜」とか言って、適当に部員の中から希望者募って
仕事を手伝うことになった。

ところが、この話には裏がイロイロあって、結局のところ、
せとたつ先輩とO文社の間に行き違いがあり、
編プロ設立どころか、仕事も当初の予定から激減。
普通、こういう状態になれば、
「スマン。うまく話がすすまなかった。集まってもらって悪いんだけど解散」
って、なると思うんだけど、せとたつ先輩は、
それをせず、1年がまんして、来年度こそは会社設立をめざすから
「協力してくれ!」と、言い出した。

こうして、
少ない仕事を、6人で分け合うというのは無理だから、3人だったかが残り、
せとたつ先輩の指導のもと、読者ページ製作のバイトがはじまった。
バイト代は、今では考えられないくらいに安かった。
でも、誰がどう見ても、せとたつ先輩も貧乏なので、
「もっとくれ」とは言えなかった。本当に、みんな貧乏だった。

で、仕事を面白可笑しくやりながら、
4年になり、就職の時期になる。
当時はバブル景気で引く手あまた。
まともに就職しようと思って、会社を的確に選べば、楽勝だった。
でも、僕は就職する気がなかった。
このまま、この仕事やって、編プロになったら、そこに勤めればいいや〜
くらいに思っていた。とりあえず、仕事が面白かったし。

仲間のひとりは、ちゃんとした広告代理店に就職が決まった。
もう一人は、ちょっとした事件にからんでしまい、就職はあきらめて、
僕と同じように、「そのまんま」となる。

この1年間は、いわば、「編プロ準備期間」で、
事務所借りるお金もないため、事務所代わりに、O文社のロビーの机を占拠、
ロビーでつい大声を出して、注意されながら、
目立たないように、でも、好き勝手に仕事をやった。
O文社の社員のみなさんが、なんとなく事情を察してくれて
あたたかく見守ってくれたというわけ。

で、いつも会社のロビーにいると、
「ちょうどいいや。あんたんとこで、コレやって」・・・ということで、
読者ページだけでなく、パズルやクイズ、雑学、生活記事なんてのの
ページも任されるようになり・・・
まあ、仕事内容も、たぶんそれなりに評価されたんでしょうね。
結局2年近く、ジプシー編プロ(疑似)軍団をやって、
せとたつ社長の編集プロダクションが船出しました。

正確にいうと、せとたつ社長の編プロは、ワンクッションおいて・・・
はじめ、別の親分の傘下の団体を半年やって、それから
独立したんですが、その話はややこしいから、いいや。

とにかく、飯田橋から九段下のほうに降りていって、
競馬新聞の「勝馬」の近所の、おそろしくボロな木造の小さな家屋の
2階に、せとたつ社長と、その片腕Y先輩、せとたつ社長の奥さんの環さん、
もと朝日小学生新聞の編集長Yさん(ちょうど会社やめたので、合流。せとさんの友達)、
僕、僕の大学時代からの親友、中村亮で
編集プロダクション、「ギャグバンク」が船出した。85年の夏だったと思う。

まあ、とにかく、あんなみじめでデタラメな状態から
会社おこすとこまで行くなんて、結局のところは
バブル時代だったから・・・ということも、あるんでしょうね。
と、いうか、それだけのような気もする。

大きな会社は、得体の知れないとこ(不動産とか株式とか)から儲けが出ていて、
だから、社員が働かなくてもよくなったの。
5時になると、さっさと帰る。
で、当然、それじゃ仕事にならないから、
僕らみたいな「便利屋=編プロ」が必要になった。
ただそれだけだったような。

(つづく)
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by uorya_0hashi | 2007-09-11 18:41 | だらだらまんが道

だらだらまんが道1 大学漫研編

えー。いちおう、今は漫画家みたいなことやってますが、
こないだ、漫画家志望の若いひとに
「どうやったら、漫画家として、たべていけるのでしょうか?」とか
言われて、
「いやあ。いまだって、カツカツで、いつのたれ死ぬかわからない・・・
それはともかく、やっぱり、漫画雑誌の新人賞とるとか、
漫画家のアシスタントになるのがいいんじゃないですかね?」
とか、答えました。全然、心がこもっていない。

「大橋さんは、賞をもらったり、アシスタントをやったりして、
漫画家になったんじゃないんですか?」
「あ。なんかハーレクインロマンスから賞もらいましたよ。
あと、横山やすしさんからもトロフィーもらった。アシスタントは3晩だけやりました。
新谷かおる先生と、ながいのりあき先生と、手塚治虫先生。
ただ、手塚先生んとこは原稿にさわらせてもらってないけど。待ってただけ」
「あのー。聞いてるだけで、それって、どうでもいいって感じの
エピソードなんですが。」
「そう言えば、そうだなあ。賞もアシも、別に、どうでもいい話ですね。
どうやって、漫画家になったんだっけかな?」

と、いうわけで。

なにが、「と、いうわけで」なのか、よくわかりませんが、
なんとなく、昔を思い出してみましょう。
なんか、悩める若い漫画家志望者にとって、よいヒントが
でてくるかもしれない。出てくるといいなあ。

とにかく、子供のころから漫画家になりたかったんですよ。
なんとなく・・・ですけど。
漫画は、子供の頃から、たくさん書いてました。
ラクガキだけど。ノートに鉛筆で、赤塚不二夫先生のマネみたいな
ギャグ漫画を延々と書いていた。
とにかく漫画を書くのが好きだった。

あとは、怪獣とか怪人、ロボットの絵。
そういうのが、とにかく好きでした。自分で怪人図鑑とか作っていました。
永井豪先生の漫画に出てくるようなロボットも、マネして書いてました。
高校生のころ、アメコミが好きになり、
筋肉ムキムキのヒーローばっかりラクガキしていて、
同級生に「ホモか?」と、言われました。
「漫画を読む」ほうも、本当に好きで、こづかいのすべてをコミックスに
つぎこんだような感じで、漫画ばかり読んでました。小学生のころから、ずっと。

高校生の時には、「石井隆」の「天使のはらわた」にも、ショックを受けました。
もう、チンチンは立つわ、泣けるわ、切ないわ、怖いわ、死にたくなるわ・・・
脳みそ引っ掻きまわされるくらいショックだった。

で、それから、劇画にめざめて、さかのぼって、真崎守とか、COM系のひと、
さいとうたかを、園田光慶とか、そういうのも好きになった。
もともと、水木しげるは好きで、ガロ的な劇画には触れていたので
どんどん劇画のいろいろを攻略していきました。
あとは、三流劇画。エロ劇画ですね。ちょうど「三流劇画ムーブメント」の時代でした。

高校1年の時だったかに「劇場版 宇宙戦艦ヤマト」が公開され、
友達は、そのあとのガンダムとかにも影響されて、多くがアニメファンになり、
スターウォーズ、未知との遭遇、スーバーマンと、大型SF映画も公開され、
SFファンになったのもたくさん・・・そういう時代だったのですが、
僕は、ほとんどひとりでエロ劇画、劇画に魅了されていました。
友達に知られると「変態扱い」は間違いないので、
コッソリ、ひとりでの楽しみだったのですが。

で、そういうものに感化されて、
「人間の汚い部分も赤裸裸に書き込む劇画家」になりたいと思うようになりました。
ただ、その時点で「自分にそういうものを描く実力がない」こと・・・
お話の点でも、絵の点でも「ハナシにならない程度」だということは
よくわかっていたので、「夢は夢として」ちょっと横に置いて、
大学に進学することにしました。勉強はそれなりにやりましたが、
もともとあんまり頭がよくないので、現役では、たいしたところに行けません。

結局、法政大学に入学し、上京して、漫画研究会に入りました。
当時の法政漫研には、漫画家をめざす、
大学漫研としては、有数の実力をもつ先輩たちがたくさんいました。

「集談館 少年パワー」の先輩たちです。
この大手漫画雑誌のパロディみたいなグループの先輩がたは、
僕が入学したときの4年生でした。
10人くらいのメンバーが、スポーツもの、魔界もの、ギャグ、冒険アクションなど
それぞれ得意のジャンル漫画を書き、それを雑誌のパロディ形式の同人誌に
まとめあげていました。
これは、法政漫研の公式の同人誌ではなく、その学年の、そのメンバーが
自分たちだけでお金出して、作った「学年同人誌」みたいなものだったのですが、
当時の大学漫研としては、かなりの高レベルで、
「全員が漫画家になれそう」な感じがしました。
当時、「ぱふ」か「ふゅーじょんぷろだくと」に、法政漫研の公式同人誌みたいに
間違って紹介され、それを読んで、「法政漫研は凄いな」と思って、
憧れて、漫研に入部しました。

ところが、大学漫研というのは、
「漫画が好きな連中がなんとなく集まっているもの」というのが実体で、
漫画を描くのに熱心なのは、「集談館」の何人かと、数名の先輩たちだけでした。
漫画についてのマニアックな会話そのものが「ヤボ」という感じで、
あてがはずれて、がっくり来ました。

とはいうものの、「文系の駄目な大学特有の、自由で怠惰なムード」には、
独特の良さがあり、そのムードに染まって、
「劇画家になろう」という夢はどこへやら。全然、真面目に漫画も書かないし、
特に「研究」もせず、3年生のころまでウダウダすごします。

同人誌作り・・・編集のほうは、真面目にやったのですが、
それは「法政漫研」の同人誌ではありませんでした。
外部の学生、社会人によるアメコミ研究会「コミック・ラバーズ・アソシエイション」
略してCLAのほうの同人誌でした。
小野耕生さんのやっていた「月刊スーパーマン」で、会員募集していたので、
入会したら、いきなり先輩方にコキ使われ、いつのまにか2代目会長をやらされ、
会誌を作らざるを得なくなったのです。

アメコミは好きだったのですが、そんなに詳しいわけでもなく、
知識がないので、本来ならやりようがないのですが、
ヤケクソでデタラメな性格を発揮して、「東スポテイストのアメコミ同人誌」を
何冊か作りました。
ようするに、デタラメとギャグとゴシップと暴力を前面に出すということ。

各ページで真面目なアメコミ論を執筆していたのは、アメコミ好きではあるものの、
基本的に真面目なSFファンの先輩方でしたので、その体裁にはみんな驚き、絶句。
怒られて、さっさと「会長やめろ」とかいう話になるだろうから、
それならそれでやめちゃえばラクでいいや・・・と思っていたのですが、なんと!
「変化球で面白い。シャレがきいている!」と言われて、妙にウケてしまった。
これには驚いた。で、滅茶苦茶、嬉しかった。

だ、もんで、
いい気になって、ワルノリし、どんどん
自分勝手に変な本に変えていきました。CLAのJUSTICEという会誌を。
「こんな変え方はよくない」という、真面目な会員さんもいましたが、
「面白くてウケることが一番大切」という考えに染まってしまい、
「なにをやっても、文句を言う人は何人かいるものさ」と、
そういう少数意見を独善的に黙殺し、編集改革を押しすすめました。
(かなり、おおげさに語っています)
ま、そんなこんなで、「編集というのも面白いなあ」と思うようになりました。

同じようなことを「法政漫研」でも企んだのですが、
自分の所属する派閥が、「公式同人誌」の編集長の座攻防戦で破れ、
それはあきらめることになります。
結果としては、そのほうが、漫研のためには良かったでしょうね。
編集するほうが、面白がって、暴走するなんて、ロクなもんじゃないです。

(つづく)
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by uorya_0hashi | 2007-09-11 13:42 | だらだらまんが道